学者の発想(by友岡)

昨日、読んでいた或る本にこう書いてありました。


「意思決定はだれが行うことが望ましいのだろうか。一つの考え方は、企業にとって最も本質的に重要な資本を提供しているグループが企業の意思決定を行うべきだ、というものである。……
大学や……などでは物的資本の提供者ではなく、人的資本の提供者がコントロール権を持っている。これらの産業には共通点がある。企業の競争力の中心的な源泉が構成員の高度な人的資本である点ということである。たとえば、大学の競争力を決める重要な要因は教職員の質……であろう」。


しかし、昨今は「人的資本の提供者がコントロール権を持っている」こと(大学が学者によって経営されていること)が批判されています。
学者的な発想ではダメ、大学にも企業経営的なセンスを導入すべき、といった声のことです。


これについては思うところもあります。つまり、大学の経営はいかにあるべきか、については思うところもありますが、ここには書けません。


ただし、学者的な発想、といえば、(1月25日のブログに書いた、実務家から転身したばかりの某大学の某教授、のような)実務家出身の人の発想と、そうではない学者の発想の‘違い’には興味深いものがあります。


例えば色々な会議などで、実務家出身の人の発言と、学者の人の発言を聞いてると、考え方というか、話の方向というか、そうしたものが本当に面白いくらいはっきりと違うことに気づきます。
学者には、一般性のある理論をつくりたいという欲求があるからか、どんな話をしていても、話の方向が‘一般化しよう、一般化しよう’‘個別から一般へ’という感じですが、他方、実務家出身の人の場合には、自分の実際の経験とかにもとづいて、‘こういうケースもある、こういうケースもある、こういう例外もある’といったように、話の方向が‘一般から個別へ’という感じで、全く逆ということです。
むろん、どちらがいい、ということではありませんが。


なお、「大学冬の時代」と言われる昨今、どの大学も生き残りのために色々な改革をやっていますが、これは要するに、(1月20日のブログに書いたような)役に立たないことをやっている象牙の塔‘ではなくする’改革でしょうか。
例えば実務家出身の教授を増やしているというのも、そうした改革の一環で、要するに‘世間知らずではない教授に役に立つことを教えてもらおう’ということでしょうか。